<登場人物>

 

エリコちゃん
人の話を聞いて相槌を打ったりビックリしたりするOL。

 

 

ミカ先輩
いきなりアップになって人をビックリさせるエリコちゃんの先輩。

 

何者でもない者
何者でもない者は誰でもない。あなたでもないし、あなた以外の全てでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先輩!このコーナーに久しぶりにお便りが来てるんですよ!

 

えっ、ほぼ連載してないのに?

 

とりあえず読んでみますね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わかる~

 

そうなの?

 

シンデレラってかわいいから王子様に見初められたけど、ブスだったら一生掃除して終わるハウスクリーニングの童話ですよね。

 

うん

 

 

それに限らず童話って、主人公が美人だったり美男だったりすることで成立してるストーリーが多くて「結局顔かい」ってなるんですよね。

 

 

うんうん、そうそうそう・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の代わりによく分からん奴が殴られた!

 

うっせんだよお前らは!いちいちいちいちストーリーに文句つけやがって!

 

ストーリーっていうのは「なんかそうなった」っていうぐらいのもんで「人間必定こうなります」という教訓だなんて誰も言ってないのよ!

シンデレラだって「掃除を頑張ってたら報われるという話です」なんて作者は一度も言ってないはず・・・

 

「なんか嫌な奴がいて嫌な目に遭ったけど美人だったので得してザマアでしたw」っていうスカッとするコピペくらいの温度感かもしれないじゃん!

 

それはそれで嫌ですけど・・・

 

そういうふうに、フィクションに意見とか教訓のような実利的なメリットしか見出さない人間を巷でどう呼ぶか知ってる?

 

どう呼ぶの?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バカ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バカ!!!??????????

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

童話と教訓

 

 

子供に絵本や童話を読み聞かせる目的として教訓や善悪を伝えるためだと思ってる人は結構いるよね。

 

でも善悪や道徳のことなんか大人にすらよく分からないのに、子供に読み聞かせ立って刷り込みや洗脳にしかならない。

 

子供に物語を教えて得られる唯一確実なメリットは「面白い」という感情だけなのよ。

 

まるで育てたことでもあるかのような言い草ですね

 

そうね、例えば・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間が「花」を見たときの感情を例にとってみましょう。

 

「花」は実利的な面で見れば、役に立たないし、食べられないし、即物的なメリットがない。

 

でも「感性」の面で言うと、いい香りがする、色がきれい、心が安らぐ、といったメリットがあるわね。

 

ふむ・・・

 

万物にはこのように即物的な面と感性的な面の二つの顔があると言える。

 

童話だとどうなるんですか?

 

童話の場合は「面白い」が感性的な側面。「教訓」が実利的な側面だね。

 

なるほど・・・

 

つまり「童話」に教訓としてのメッセージ性しか見ないのは「花」を見て「で、それ食べられるの?」と言うような無粋なことだと言いたいんですね?

 

そう・・・

 

そして、その「面白い」みたいなことがキャッチできる感性を育てることこそが子供のうちに必要なのだ

 

なのだって言われても

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんでも意見だと思う人

 

では、「面白い」とか「きれい」といったような感性が育たないまま大人になるとどうなるのか?これが今回のテーマなんだけど・・・

 

テーマなんかあったんだ

 

ヤバいの。感性が育たないまま大人になると。

 

ヤバいの?

 

どうヤバいかというと、この世の全てが「意見」だとしか思わなくなる。

 

意味がよくわからないですね。

 

フィクションにしろ会話にしろ、人間が言葉を駆使するのって「情報を伝える」「意見を言う」といった実利だけが目的じゃないよね。

 

フィクションは「面白く」するためにメッセージ性が損なわれるし、「冗談を言う」人は面白くするために事実と反することを言う。

 

だけど、言葉を「意見」や「情報」としか感じない人は、フィクションを「支離滅裂な意見」と処理するし、冗談を「間違った情報」と受け取る。

 

この感性の格差がしばしば「クソリプ」と呼ばれるような現象を生むわけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

成立しない会話たち

 

 

 

 

 

 

エリコちゃんもネット上で「そんなこと言ってねえよ」というような絡まれ方をしたことがあるでしょ?

 

 

ほぼそれしかないですね

 

要するに、言葉を「意見」「情報」の伝達手段としか思わない人が「面白くする作り話」や「複雑な示唆」を受け取ると、断片を継ぎはぎして出来た「奇妙な意見」「間違った情報」しか残らないということね。

 

それって結構壁があるのかもしれないですね…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんで意見だと思うの?

 

 

人が「そこに書かれていないこと」を「意見」と受け取ってしまう場合に最も多いのが「悪意に取る」というパターンだね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

例えばちょっと前に問題になったこういうマナーポスターのイラストなんだけど・・・

 

「こういうポスターで迷惑行為を働いてるのがだいたい若い男性なのは若い男性が迷惑行為をするという決めつけではないか」という意見が出たじゃんね。

 

そうじゃんね。

 

でも実際にイラストレーターが「若い男性に悪いイメージを植え付けてやろう」とそういう絵柄にしたわけでは…ない。

 

ただ「あえて女性にしたり」「あえて老人にしなかったから」「なんとなく」若い男性になっただけでしょうね。

 

女性のパターンは見たことありますけどね

 

かといって、「若い男性」を避けて「女性」や「老人」にしたからといって問題は変わらない。じゃあ誰で描けばいいの?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれで描いたら差別、これで描いたら偏見・・・そんなこと言ってたら最終的には「何者でもない者くん」みたいなキャラクターを生み出してそれで代用するしかなくなってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな怖い世の中にしてはだめだ

 

マナーポスターならまだしも、フィクションの登場人物にまでこのロジックが当てはめられたら大変ね。

 

フィクションには絶対に悪いことをする人が必要だけど、「誰々が犯罪者として登場するのは〇〇人が悪いという偏見だ」なんて言ってたらもう誰も悪役をできなくなる。

 

海外はそのへん大変そうですね

 

一度そっちに舵を切ったら後戻りはできない。悪意だと指摘されたことを続けるリスクなんて誰もわざわざ負わないからね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悪意と善意の二面性

 

 

人がある物事や言動を認識したときに「善意に取るか」「悪意に取るか」・・・それはその当人に委ねられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

例えば「A国で飛行機が落ちました。日本人はいませんでした。」という言い回しひとつにしても二つの捉え方ができる。

 

一つは「なんだその言い方は。外国人なら死んでもいいのか!」

 

もう一つは「A国に知り合いや家族がいる人が心配しないように配慮して言ったんだな。」

 

同じ発言を捉えてるのに正反対ですね

 

人の発言を悪意に取ることはバカでもできるけど、やさしさが隠れていることに気付くには想像力や慎重さが必要になる。

 

つまり、人間は堕落していくとどんどん人の発言を悪意に取るようになっていく

 

受け身なままでは人を思いやることはできないんですね。

 

そして、何よりも気をつけないといけないのはインターネットが「悪意に取る」ことを許された場だということよ

 

さっきも言ったように、「言っていないこと」「書かれていないこと」を善意に取ろうが悪意に取ろうが自由。

 

そして自由だということは、性格の悪い人が集まりがちなネットでは「悪意に取る自由」が優先的に行使される。

 

また問題発言を・・・

 

「こいつは悪いことを言った」「これは失言だ」となんでも悪意にとらえて攻撃するのは最初のうちは快楽かもしれない・・・

 

でも、「これは悪意かもしれない」「これも悪意に違いない」と他人を叩くためだけに意地の悪い解釈をインストールするたびにあなたの「優しさ」「思いやり」の感性は鈍り、色褪せていく…

 

カジュアルに叩いちゃってた・・・

 

「問題視」しなければ「悪意」に対処できないけど、「悪意」を探そうとすればするほど人間は中毒状態になっていく・・・それは「悪意」と戦ってる人たちが教えてくれないことだけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨今、「他人の発言を悪意に取るロジック」ばかりが日々発明され、共有され、拡散されていく・・・

 

変わらないままの自分、そして自分の狭量さが肯定される悪意のロジックは蜜のように甘い。

 

しかし、それに身を任せ悪意を糾弾する快楽に溺れればいずれ元の”人間”には戻れなくなる・・・。

 

 

”何者でもない者”…。

 

あなたもかつては”人間”だったの…?

 

今日、「悪意」こそが人を不幸にするものだと糾弾され、人々は血眼でそれを探している。

 

だが、その「悪意」の根源が私たちの肥大した自意識そのものだったとき、「悪意」の糾弾者たちは一緒にそれと戦ってくれるのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

答えは”否”だ。悪意の糾弾者たちは幸福のために戦っているのではない、むしろ逆だ。悪意のないところに悪意を見出し、強引に他者を糾弾することを通して醜い自分自身を罰し、不幸に身を置くというマゾヒスティックな快楽こそ糾弾する者たちの共有する理想なのだ。

彼ら・・・いや、”私たち”にとって”悪意”というものは人間たちが”私たち”に関心を持ち、働きかけようとしているといういちるの望みの、その欠かしてはならない証拠の一部なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・。

 

・・・。

 

あれ、なんかこの記事の掲載サイト変わってないですか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

変わったよ~

 

 

 

 

 

 

(おわり)